晴矢はもう、あの日のことを忘れてしまったのだろうか。幼い俺が、誰にも声をかけられず、ただ遠くからみんなを眺めていたあの頃。あの時、誰よりも先に俺に「一緒に遊ぼう」って声をかけてくれたのは、確かに晴矢だった。
あの言葉が、どれほど俺にとって救いだったか――。
エイリア石との出会いで、父さんが変わってしまってからは、俺たちの関係も崩れてしまった。父さんの期待を背負い、吉良ヒロトの「代わり」として特別扱いされる俺は、施設で過ごしていた他のみんなとも距離を置かれるようになった。父さんの“息子”としての立場は、俺に強さを与えると同時に、孤独も与えてくれた。特別な存在として扱われることが、こんなにも孤独で、重いものだなんて思ってもみなかった。
施設の家族――かつての仲間たちの視線は、いつも冷たかった。俺が望んだわけじゃない「特別扱い」に、周囲は次第に疎ましさを隠さなくなった。俺は彼らの家族じゃない、と感じることが多くなっていった。それがどれほど苦しいものか、晴矢には、もう伝えられない。
孤独感が胸の中で膨れ上がる度に、俺は自然と晴矢のことを思い出す。あの日、無邪気に声をかけてくれた彼の姿を。あのときの俺は、晴矢に救われたんだと、今ならはっきりわかる。だからこそ、またあの日のように、「一緒に遊ぼう」って声をかけてくれたら、と夢にすがってしまう自分がいる。
だけど、それはもう叶わないだろう。俺が背負っているものが、あまりにも大きすぎて、そして今では晴矢にとって俺がどれほど遠い存在になってしまったのか、痛いほどわかっている。すっかり疎まれ、嫌われてしまった俺が、彼に手を差し伸べられることはもう二度とない。
それでも――。胸の奥底に残った、小さな希望が消えることはない。
晴矢は、俺にとって唯一「普通の子供」でいさせてくれた存在だから。あの日のことを、忘れていなければいいと、そう願わずにはいられない。
窓の向こうに広がる訓練風景に、自然と目がいってしまう。プロミネンス――晴矢たちが今日も熱心にトレーニングに励んでいる。炎のように情熱を燃やして、必死にその目標に向かって突き進む彼らの姿。
「……どれだけやっても届かないのに。」
そう呟いた言葉は、少しだけ自分自身にも向けられているように感じた。彼らがどんなに努力しても、俺には――特別に強化された俺には――届くことはない。そんなことはとうに分かり切っている。それでも、彼らは諦めずに前へ進んでいる。哀れにも思えるが、同時に――いっそ届いてくれたらいいのに、と思うこともある。
特別扱いを受け、父さんから与えられた「強さ」。俺にはそれがある。だから誰も俺に追いつけない。誰も俺を越えられない。だからこそ、俺は孤独で、疎まれる存在になってしまった。それでももし、晴矢が、彼らが、この強化された俺に手を伸ばし、超えてきたなら……どれだけ楽になるだろう。
「……まぁ、無理だろうけど。」
ふと冷笑が漏れる。そんなことは分かっている。どれだけ努力しても、晴矢たちは届いてくれない。それが俺の「宿命」なんだと、ずっと理解してきた。けれど、それでも――もし奇跡が起こって、晴矢が俺を追い抜いてくれたら、少しは変わるのだろうか。
窓の向こうで、涼野風介――ガゼル率いるダイヤモンドダストがプロミネンスと合流していた。合同訓練なのだろう。冷ややかな風が吹く中で、火と氷のコントラストが目を引く。2つのチームが激しく競い合うその姿が、ただただ遠く感じた。
「いいな……」
口をついた言葉は、どこか虚しい。いつものことだ。俺はその輪に入れない。晴矢と風介は、敵同士となった今も、言い争いながらも何だかんだで仲が良い。お互いを意識し合い、競い合っている姿は、まさにライバルと言うべきものだろう。彼らの口論さえも、俺にとっては羨ましい。
俺もジェネシスのグランとしての役目がある。訓練もこなさなければならない。ヒロトとしての感情は捨てて、グランとして徹底しなければいけない。それが俺の立場だ。
でも、そんな簡単に感情を切り替えることなんてできるわけがない。胸の中に渦巻くドロドロとした感情――孤独、嫉妬、疎外感。吐き気を伴うような苦しさに襲われながら、それでも訓練を淡々とこなすしかなかった。
1人になった瞬間、無意識に下を向き、重いため息がこぼれる。寂しくて、妬ましくて――そんな汚れた気持ちでいっぱいだった。
ふと、目の前に晴矢――バーンが現れた。彼とすれ違った瞬間、俺は思わず身をすくめた。晴矢の視線は冷たい。それはまるで睨むかのような鋭い目つきで、彼の中に渦巻く苛立ちを隠すことなく、俺にぶつけてきた。
「おい、グラン。」
声をかけられた瞬間、心臓が少し跳ねた。苛立ちと嫌悪感が滲むその声は、距離を感じさせる。胸の奥が少し痛んだ。
「……何か用かい?」
俺は、努めて落ち着いた口調で返す。丁寧に振る舞おうと心がけるものの、晴矢の強い視線が俺の心を揺さぶっていた。彼の目には、昔俺が見ていた優しさの欠片すらなかった。
「自分より弱いやつを上から眺めるってのは楽しいのかよ。」
晴矢の声が鋭く、俺の胸に突き刺さった。彼の目には明らかな苛立ちと憎しみが宿っている。まるで、俺が彼らを見下していると勝手に決めつけているような、その憎悪が重くのしかかってきた。
思ってもみなかったことを、さも俺が考えているかのように晴矢は決め込んでいる。
風介にはそんな態度を取らないのに、なぜ俺には――。
いや、晴矢だけじゃない。みんなそうだ。施設にいた頃の家族も、エイリア石を手にしてからの仲間も、俺に対しては冷たい視線を向ける。みんな、特別扱いされる俺を遠ざけ、疎ましく思っている。
「あー……もう、イライラするなぁ……。」
晴矢の言葉に何かが胸の中でプツンと切れた気がした。怒りがふつふつと沸き上がり、熱が頭の中でぐるぐると渦巻いている。その一方で、心の中は冷えきっていくのが分かる。怒りの熱が高まれば高まるほど、その分だけ感情が凍りついていく。
溺れていく――そんな感覚だ。かつて、晴矢が手を差し伸べてくれたあの時とは、まるで正反対の感情に引き込まれていく。
深く息を吸い込んだ。吐き出す間もなく、何かが壊れる音が自分の中で響いた。それからの記憶は、曖昧だった。
ふと我に返ると、目の前に傷だらけで倒れている晴矢がいた。意識はない。彼の体には痛々しいあざが無数に刻まれていた。
足元に転がるサッカーボール。乾いた音と共に、そのボールが俺の靴先にぶつかって止まった。あの瞬間、俺はこれを何度も、何度も晴矢に向かって蹴りつけたのだろう。
「こんなことしたかった訳じゃないのにな……。」
呟きながら、俺は意識を失った晴矢の体を見下ろした。胸の中には罪悪感が渦巻く。それでも、抑えきれない衝動に突き動かされるまま、俺はエイリア石に手をかけた。冷たく、輝くその石の力を呼び覚まし、瞬間的に空間が歪んだ。
――ここなら誰にも見つからない。
ワープした先は、俺しか知らない場所。仲間たちも、風介も、誰もここにはたどり着けない。かつて俺が独りで過ごしていた、何もない無人の廃工場のような場所だった。古びた壁にひびが入り、薄暗い空間が広がっている。ここなら、誰の目も届かない。
晴矢をそっと床に下ろし、エイリア石を彼の胸から抜き取った。その瞬間、彼の力は失われ、ただの人間に戻った。彼が目を覚ました時、どんな反応をするのか想像もつかなかったが……今は考えないことにした。
「……縛って、おかないと。」
自分に言い聞かせるように、ロープを探し、彼の手足をしっかりと縛りつけた。晴矢の体は無力なまま、俺の目の前に転がっている。
「君の目も……もう見たくない。」
そう言いながら、俺は晴矢の顔を覆うように布を取り出し、彼の目にきつく巻き付けた。気絶している彼が目を覚ましたとき、俺をどんな目で見つめるのか、その瞬間に耐えられそうになかったからだ。
晴矢の目――かつては俺に手を差し伸べ、優しく微笑んでいたその瞳――今ではその瞳に映るのは憎しみと苛立ちだけだろう。だから、そんなものを直視することなどできない。もう、見たくない。
彼を縛り、目隠しを終えた俺は、ふらふらと足を引きずるようにして、再び窓のほうへ向かった。窓の外は何も変わらない。夕焼けが空を染め、荒れた大地が広がっているだけの寂しい風景だ。
「……全部、俺が壊したんだな。」
視線を外に向けたまま、誰に言うでもなく、ただ呟いた。黄昏に染まるこの場所は、俺の心そのものだった。全てが壊れて、何も残らない。ただ虚しさが広がるだけだ。
心の奥底では、晴矢にこうすることを望んでいた訳ではないことを理解している。それでも、この場所に彼を連れてきてしまった。何かを取り戻そうとして、それができずに、ただすべてを失っていく。
窓の外を見つめ続ける俺に、冷たい風が吹き付けた。けれど、何も感じない。ただ、もうこれ以上進むことも、戻ることもできない――そんな絶望の中で、俺は一人、立ち尽くしていた。